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発売から11年が経ち、wikiも勢いをすっかり無くしてしまっているため、初心者(私もそうですが)への指南と、自他ともに再び三国志11への情熱を復活させることを目的に投稿。 当方初投稿ですので、拙文ですがお読み頂ければ幸いです。 プレイ条件 PS2版PK シナリオ:「187年 4月 何進包囲網」 難易度:上級、戦死「普通」 勢力:龐羲 数字の羅列が出てきますが、その武将の 統率-武力-知力-政治-魅力 を表しています 縛り:武将登用時の功績リセット(古参を重視したいため) それではプレイを開始させて頂きます。 0.現状把握 今回プレイする「龐羲」勢力とはなんぞや?な人のために注釈から始めます。 このシナリオは何進が帝位を簒奪した、というifシナリオになっており、地方では群雄が独立をする……といったシナリオとなっています。そのため、龐羲の他にも厳顔や区星、婁圭といった普段は一般武将となっている武将が君主となっています。 そんな龐羲の能力はこちら。 60-38-68-74-57 (特技なし) はっきりいって君主としては物足りません。 また部下がたった一人だけ、楊懐という武将がいるのですが、その楊懐の能力は 62-68-68-62-53 (特技なし) この二人で統一まで持っていけるはずがありません。 しかし、恵まれたことに(ここしか利点がないのですが)スタート地点は「梓潼」であり、しかも隣接する勢力はありません。これなら内政に励んで在野武将の発掘を待てますね。 という訳にもいかず、北では軍師賈詡と馬騰を手に入れた董卓vs今シナリオ最強と目される何進がドンパチやっているのでいずれは呑み込まれる運命にあるでしょう。 南の江州には厳顔が勢力として独立しています。幸いにも彼らはこちらと同じで武将二人。その能力は 厳顔 79-83-69-67-79 弓将 黄権 75-59-82-79-78 規律 あれ?格差が酷くないか? 1.187年の戦略 ゲームを開始させてまずやることは武将の育成。楊懐はまだ若く、成長過程にあります。具体的には能力値が先ほど挙げた数値よりも3~4低いので、今のうちに能力を上げておけばピークを迎えた際に多少はマシになっている……か? というわけで政治(低)→築城→知力(低)→統率(低)→武力(低)と二年ほどかけて研究します。 187年には在野武将の登用は厳しいものがあるので(というか近隣に現れない)、187年の内に治安、気力の向上をやりきってしまい、ついでに龐羲で成都を占拠します(このとき漢中がまだ空白都市であったため、梓潼のほぼ全軍を持っていきます)。これで187年終わり。 2.188年の戦略 この年は龐羲軍に念願の在野武将が登場します。その名も張任。彼を好きな方もいるかと思います。 張任 88-84-78-59-76 弓将 彼は龐羲が1月上旬に探索すると現れ、3月上旬に龐羲の登用に応じます。 この時点で厳顔には負けない武将を手に入れたため、内政施設を建てだします。 とはいっても梓潼には鍛治だけ作り、弩の自動生産をさせるだけで、後は能力育成を行っていきます。 すると驚き、なんとあの楊懐(60-65-65-60-51)が 70-70-70-71-51 築城 という二流武将に成長しました!これが三国志11PKの最大の醍醐味だと思います。 件の厳顔はまだ内政に苦しみ、兵力2万4千のまま。こちらは徐々に募兵を始めます。 3.189年の戦略 この年は成都に張松、呉蘭、劉璝が登場します。 張松 15-6-88-82-19 呉蘭 62-80-35-36-50 劉璝 71-73-66-44-62 どれも今の龐羲軍には貴重な存在です。まず探索をしてみます。しかしなぜだか引っ掛からない。気を取り直して探索すると劉璝が見つかります。が、3月になっても劉璝が登用に応じてくれません。 ここで張任が武官推挙のイベントを起こします。これは一騎討ちに勝つとその武将が配下に加わるイベントです。呉蘭が相手として登場しました。成都に出現するのにわざわざイベントを起こしてまで来るとは思いませんでした(このイベントは他の都市にいる武将も対象になるため、未知なる武将を楽しみにしている筆者はがっかりしています)。 一騎討ちに勝利し、無事呉蘭を手に入れると劉璝が自ら仕官してくれました。この3ヶ月を返して。 張松は発掘後に建寧に逃げましたが、無事回収。軍師を彼(知力83)にしようかと思いましたが、せっかくなので知力を80に鍛えた楊懐に軍師を任せました。古参(特に楊懐)を重視して活躍させたいと思ったからです。 武将が増えると、行動力が溢れなくなりました。これまではかならず行動力が溢れていたのですが。 ちなみに厳顔は永安を占領しましたが兵力は増えていない様子ですので来年辺りにでも侵攻しようと思います。 あ、あと梓潼に登場する高沛(ただ一人の楊懐と親愛関係にある武将)を確保することを忘れずに行いました。12月に。 4.190年の戦略 この年に成都に登場する王甫を速攻で確保して兵力を増やし夏ごろに江州へ攻めこみました。 王甫 62-41-79-78-73 彼は兵器適正Aであるため戦場でも活躍が見込まれます。江州攻撃は張任(弩隊)、楊懐(弩隊)、劉璝・王甫(井蘭隊)でそれぞれ7千。呉蘭は南蛮征討に向かわせたため今回はお休み。 黄権の抵抗を張任で撃破しながら、井蘭で城兵を削り、楊懐で城を落とします。 梓潼の情勢はというと、ようやく漢中の内政をまとめた何進軍が、袁潭を単騎でこちらに寄越しますが、張松の偽報によって桟道を往復させたので問題はなし。 開始から3年経った今の状況は 董卓・左上3都市(武威、天水、安定) 何進・漢中、長安、洛陽、上庸、宛 曹操・濮陽、陳留、許昌、寿春 龐羲・梓潼、成都、建寧、雲南、江州 厳顔・永安の6千 劉焉・江陵の5百 このことから龐羲軍が永安を取る際に障害はないと思われる。 楊懐・張松・劉璝を剣閣防衛チームに、張任・王甫・高沛を永安攻略チームに編制し、この年を終えた。 5.191年の戦略 前年から永安に軍を進めている龐羲軍は2月上旬に永安を攻略し、厳顔・黄権の両名を配下に加えた。 漢中戦線はというと、剣兵の皇甫嵩や陽平関を防衛し兵糧切れに陥った部隊等が侵攻してきたため、低知力部隊は計略で止めた。高知力部隊も桟道の近くに建設した弓櫓の破壊を行おうとしていたため、弓櫓を「築城」の楊懐で補修しておくだけでその大半を削ることに成功し、その後の撃破に至った。 その途中で楊懐と何進軍・金旋の一騎討ちを起こし見事勝利。金旋を龐羲軍の配下に加えた。 この年は永安の内政と剣閣の防衛に費やされ、成都に出てくる武将の発掘もままならないままになってしまったのが唯一の失敗だ。 楊懐を育成する際にいくつか考えなければいけないことがある。 まず育成システムを有効利用する方法だ。プレイ中に能力を1上げることは手間がかかるものである。その点育成は一度に能力が5上がる。 ここで留意すべきことは「その武将の成長が20未満ならこのシステムを使える」という点である。 さて、楊懐の統率は本来62である。これを利用すると62→67→72→77→80となり、まだ18しか成長していないことになる。そこでもう一度育成を行うことで楊懐の統率は85にまで成長するのである。 しかし現在の楊懐は成長途中であり、まだ統率は60に留まっている。この状態で育成を行っても統率は80止まりとなってしまう。 そのため楊懐の統率が61となる年を待ち、その間は知力方面の育成を行う。 もう一つ考えるべきポイントは育成コマンドで起こるイベントである。 このゲームは育成中にイベントが起こることがある。 統率、武力を鍛える際に一定確率で在野武将と一騎討ちを行い、勝利するとその相手武将が配下に加わる。 また知力、政治、魅力を鍛える際に一定確率で自軍の軍師と舌戦を行うイベントが起こる。舌戦を起こすと修業者と軍師の両者に知力経験値が加算され、能力が上昇しやすくなる。 このため楊懐が修業中の際には軍師を王甫(楊懐と同知力)に代え、舌戦イベントを狙う。今回のプレイでは筆者が弱く、舌戦に負けてしまったが狙っておくべきイベントだろう。 6.192年の戦略 成都に武将を集めて雷銅、秦宓、王累の登用を行う。その他にも流れ着いてきた楊昂や張衛を在野から登用する。 雷銅 69-78-51-37-53 秦宓 16-7-72-78-76 王累 28-30-78-80-73 楊昂 68-72-38-35-42 張衛 74-66-45-44-61 武将の頭数は揃い、あとめぼしい在野武将といえば、江州で193年に現れる甘寧と、建寧で194年に現れる李恢くらいであるので、これからは武将を登用しても能力表記を割愛させていただく。 ちなみに甘寧と李恢の能力はとても優秀であり、登用に成功すれば、おそらく何進軍にも対抗できるはずだ。 甘寧 86-94-76-18-58 威風 李恢 79-65-78-77-80 機略 漢中戦線はというと、漢中と剣閣の間に建設した弓櫓を破壊しに来る何進軍を、一方的に厳顔の弩兵隊で撃退していく。 何進軍は兵力的には最大勢力であるが、漢中は董卓軍との戦闘で疲弊している。 楊懐は上にも挙げた通り、年齢による能力上昇が起こるまでしばらくお休みしてもらって、厳顔・張任の両名で漢中に攻めこむことにした。 もちろん漢中を攻めずに荊州方面へ攻める手もある。荊州方面は武将の質、兵力的にも、何進軍より与し易い相手である。 しかし江陵という、三国志11屈指の守りづらく攻められやすい土地を得ても、伸びてきている孫堅軍や曹操軍には対抗できないので、何進や董卓と戦うことを選んだ。 7.193年の戦略 まず江州に現れる甘寧を登用する。甘寧は呉の武将であるため、龐羲軍の武将と相性が悪く登用に時間がかかった。同じ頃、漢中に流れ着いていた呂蒙を登用。 弱かった槍、戟の武官の補強を二人もした龐羲軍だったが、何進軍も全力を挙げて長安から3万とも4万ともいえる軍を送り出す。 現在の何進軍は漢中から撤退したとはいえ、宛と長安にそれぞれ4万ほどの軍勢がおり、このゲーム屈指の防衛ポイントである陽平関の存在を考えてもこの戦いは厳しいものになると思われた。 しかしここで天祐が起こる。なんと董卓軍が長安に侵攻、それも天水から出陣したため、何進軍の漢中攻略部隊は董卓軍とぶつかり合い、ここから延べ2年に渡る総力戦が行われた。 このプレイ初の危機的状況を一兵も損することなく切り抜けた龐羲軍は、十分すぎるほどの物資を後方から輸送し、漢中を攻略した際捕らえた何進軍の武将を登用する。頭数の揃った龐羲軍は、これで後方都市に主力武将を割く必要がなくなり、実質ゲームクリアを目前にした。 とはいうものの、大陸の東では孫堅と曹操が急激に伸びているため最終決戦までしっかりやりきります。 ※ここではまるで「クリアは余裕」の様に書いていますが、実際はこの後も苦戦が続きます。 8.194年の戦略 まず建寧にいる李恢を登用。これにて主要な在野武将は発掘したので、後方都市は外様である何進軍の武将に委任させた。 続いて董卓軍との決戦で疲弊しきっているため、補給が間に合っていない上庸(兵力1万程度)を攻める。やや抵抗があったものの、厳顔・張任・王甫・甘寧の大陸でも随一の部隊に3万もの兵力。落ちないはずがなく、1月に軍を進め、4月には落城。その後上庸に押し寄せたカク・顔良といった一流武将の侵攻を、なんとか撃退する。 さて、この年楊懐の統率が年齢による成長によって1上がったため、育成を再開。その結果、楊懐の能力は 85-81-82-81-62 BAACCB という三国志世界でもかなりの名将 となった。(総合391は全武将中29位) ついでに余った統率(高)を張任にあげることにしたので、張任の統率は96に。弩兵隊を率いているため、張任の統率の高さはあまり関係無いように見えるが、張任の戟兵適性はS。今後は高武力の武将と敵対することが増えるため、張任の特技・弓将が使いづらくなるかもしれない。そんなときに戟兵隊を率いて、壁になってもらうことが出来るようになった。 現在の勢力図は、 龐羲・上庸、漢中、梓潼、成都、永安、江州、建寧、雲南 董卓・天水、安定、武威 何進・長安、洛陽、宛、襄陽、江陵 曹操・陳留、許昌、寿春、廬江 孫堅・建業、呉、会稽、柴桑、長沙 袁術・新野、汝南 河北は劉備と公孫鑽が取り合っているので、詳しくは書けない。 一応陳珪が下丕β(かひ)と小沛を、劉焉が江夏を支配しているが、おそらくその都市に龐羲軍が辿り着くまでには別の勢力が制圧しているだろう。 私見だが曹操が廬江を取ることに成功したり、何進が南下していたり、なかなか珍しい展開なのではないだろうか。 技巧研究については、先述の通り楊懐の統率育成を中断していたため、難所行軍の他は知力方向の研究を進めている。(技巧研究をした武将はその能力が成長するため、留守を任せた楊懐で技巧研究を行うと、どうしても知力や政治に偏ってしまうせいです) 9.195年の戦略 開始直後に在野武将の法正が安定から流れ着いてくる。どうやら呂蒙といい、この法正といい、今回のプレイは運が良いようだ。 長安と天水の間で行われた何進と董卓の戦いはどうやら董卓軍が勝ち、長安にたくさんの董卓の軍が張り付いている。 ここが好機とみた龐羲軍は、楊懐・張任・厳顔・甘寧の武将たちで漢中から側道を進み、素早く天水を落とした。ここまでは計算の範囲内だった。 問題は新野から袁術軍が上庸に向けて侵攻してきたことだ。 袁術軍は武官は少ないが高知力の武将が多く、1対1の戦なら撃退できるかもしれないが何進と董卓を敵に回した今となっては、強大な敵である。 そこで急遽袁術軍と同盟を結ぶことを決意。龐羲たち巴蜀の武将とは相性が真逆であるのだが、後方都市に余っている金と外交府のお陰で同盟を結ぶことに成功。 というよりも我が軍としては、袁術軍にこのまま何進軍を南北に分断してほしいし、曹操・孫堅の西への侵攻を誰も食い止めないという最悪の状況への対抗策だと考えた。 これによって主力は西の董卓と何進軍の北部を叩くことに集中することができるようになった。本当はかっこよく同盟なんて結ばずに統一する予定だったのに……(このゲームの同盟はただの不可侵条約であるので同盟を結ぶ必要性は低い) 10.196年の戦略 袁術軍と同盟を結び、主力武将を二分する必要が無くなった龐羲軍。しかし、何進・董卓軍は攻勢をさらに強めた。何進はカク・文醜という高武力で高知力の部隊を幾度となく上庸に送り(1年に4~5回)、董卓軍は総勢5万ともいえる軍を天水に繰り出した。 上庸防衛は李恢・法正・黄権といった高い弩兵適性を持つ戦える文官と、育成した呉蘭・後方都市でくすぶっていたその他の武官を組み合わせ、とうとう文醜を捕らえることに成功。その文醜を登用し、上庸防衛戦は解決の兆しを見せた。 天水は甘寧・厳顔・張任のいつものメンツに、新たに特技・覇王を習得した楊懐が加わり、龐徳や馬一族を蹴散らしていく。その余勢を駆って安定攻略に出たまでは良かった。 そこで長安から天水攻撃の華雄隊が出てくる。あらかじめ施設で防衛しているはずだったが、華雄隊はそれを難なく突破し、我が軍の輸送隊を壊滅させる。その後、華雄によってあっさり天水に取りつかれてしまったため、張任を天水まで下げ、防衛を行う。 しかしどうしたことか張任が戦法を5連続失敗(突出ですから成功率は85%のはずですが……)。その上、騎兵戦法による強制一騎討ちが発生。今の天水にいる武将はゼロ。ここで負けて董卓軍に捕らわれてしまったら、後発している兵器隊によって天水が落ちるのは目に見えている。 ここに華雄(武力94)vs張任(武力84)の両軍の柱ともいえる勇将同士の一騎討ちが始まった。 敵将・華雄は攻撃重視を選択。対するこちらの張任は防御重視、相手の闘志が溜まる前に必殺コマンドによる防御力強化を行う。 華雄は闘志重視に切り替え、攻勢を強めつつ闘志ゲージを溜めては、必殺による削りを入れてくる。 戦い合うこと40合、張任はあと僅かな体力を残し、闘志ゲージを最大に貯める。そして「必殺」を三回叩き込むッ! 華雄の体力は僅か、ほんの僅かに残り、張任に反撃を仕掛ける。もはやこれまで、と思ったその瞬間!張任が最後の力を振り絞り、華雄に手痛い一撃を浴びせ、ここで華雄はダウン。 47合に渡る一騎討ちの勝敗は、この天水防衛戦の勝敗を意味していた。 残る董卓軍は張任の攻撃の前に壊滅。同じ頃、安定の攻略を完了。あとは分断された董卓軍を殲滅するのみとなった。 文官の行動にも触れておきますと、 1.黄権は費詩を推挙。舌戦は費詩を一喝したため行わず。 2.前年のいなごに吹き飛ばされた農場を行動力が余っていれば復興させている。 3.特技の築城を覚えさせて放置してしまっていた、古参の秦宓。彼は永安領に弓櫓を大量生産。いくつか間違えて江陵領に置いてしまっているようですが、迎撃に来た孫堅軍を弓櫓が撃破しているようなので、問題なし。 ここで注目すべき点は、とうとう孫堅軍と接触したという点です。孫堅軍は虫の息である劉焉や区星を薙ぎ倒し、荊州をじきに支配するでしょう。その時に備えて弓櫓を作り出したのですが、永安と江陵の境界ってわかりづらいんですよね…… そして河北を取り合っている劉備と公孫鑽が同盟を結んでいることが判明。道理で曹操軍がボコボコにされているわけだ。ここにきてラスボスが誰になるかわからなくなってきたので、この先の侵攻ルートに悩み出した。 現在の勢力図 龐羲・巴蜀+上庸、天水、安定 袁術・汝南、新野 董卓・涼州(分断済み) 何進・洛陽、宛、襄陽(袁術軍が分断済み) 曹操・許昌、寿春、廬江(中原からは追い払われている) 孫堅・呉の一帯、柴桑、荊南をほぼ統一 劉備・西河北、陳留(現在洛陽に侵攻) 公孫鑽・東河北、徐州一帯 11.(幻の)197年の戦略 あらかじめ断っておくと、この197年はかなり内容が濃く、密度の高い一年となり、筆者自身が普段まったりプレイに慣れきっていることもあるが、それを差し引いてもとてもアツい展開の一年となった。(筆者は、この撮れ高を文章に反映できない己の文才を嘆いているようだ) まずこの年に龐羲軍の壮大な戦略を建てた。内容としては董卓の武威、何進の襄陽と宛に対する三方面作戦だ。もし全ての都市を落とすことになれば、これで何進と董卓は残り一都市ずつになる。つまりはこの長い何進・董卓との戦争に決着を付けにいったのだ。 まず武威には我が軍の精鋭である楊懐・厳顔・王甫の三部隊。一応このプレイ日記では有名武将である王甫と表記しているが、実際は王甫の武力を補完するために高沛を入れている。どちらも益州出身の武将であるので筆者自身ももっと活躍させてあげたいと考えている。井蘭隊を率いて城兵を削ってくれているが、トドメは必ず他に譲ることにしているためイマイチ功績が伸びない。 宛方面の布陣は、我が軍の「二流」武将である方悦や金旋、黄権や法正、そして新戦力の文醜。みんな功績が低く寡兵であり、武将が少ない1万5千の宛とはいえ少し不安が残る。 襄陽へは甘寧・呉蘭・李恢という中堅三人衆を起用。確実に仕事をしてくれる三人であるし、なにより袁術軍が襄陽に攻めこんでいる最中であるので、いわゆる横取り狙いだ。 我が軍のエースである張任は天水に対する長安からの部隊をたった一人で撃退し続けているため、この中には加わらなかった。 宛方面は意外な展開となった。迎撃に来る武将はみな二軍に相当するメンツであり、各個撃破によってあっさり城に取りつくと宛が陥落。今回の戦いで最も働いた武将は、撹乱を外しまくった法正でもなく、パッとしなかった文醜でもなく、おそらく心攻によって兵を回復させた方悦であろう。 武威には猛将・龐徳が控えており、苦戦しつつもなんとか撃退し捕縛。龐徳のいない武威はなかなか落城しなかったものの、こちらを壊滅させることは出来ないため、時間を掛けて城を落とす。 問題は襄陽である。李恢が城に近づくと迎撃が出てくる。黄忠・徐晃・顔良の適性Sで武力90以上の三部隊が出撃。李恢が一瞬で溶け、命からがら上庸に逃げる。呉蘭も抵抗するが、またしても1ターンで4000くらいの兵を飛ばされたため、さすがに今の襄陽を攻略することは不可能と判断。全軍撤退を行った。 気づけば袁術軍は一掃され、甘寧・李恢は帰還したものの呉蘭は襄陽で孤立。この時の古参重視を掲げた筆者に襲った呉蘭に対する申し訳なさは理解してもらわなくて結構だが、とにかく大敗北を喫したのである。 退路を絶たれた呉蘭隊を救ったのはなんと袁術軍だった。袁術軍が港を取り返してくれたお陰で何進の軍勢はそちらに向かい、呉蘭は港を取り返し素早く上庸に帰ることが出来た。もちろん袁術軍の部隊が壊滅したことは言うまでもない。 三方面作戦の戦果としては2つの城を落とし、強い武将の捕縛に達成したことであろう。それと同時に、何進の本気を見せ付けられた部分も収穫だろう。 戦力不足を痛感し、何進・董卓軍から強力な武将の登用を行う。結果から言うと龐徳・文聘・賈詡・成公英(COMお得意の、軍師の知力を95に上げるルーチンによって知力95に強化されている)を登用した。古参重視の方針であるため、防衛戦や内政で活躍してくれるだろう。運が良ければ今回の宛攻略戦のように別働隊に編制するかもしれない。 この攻略作戦の後、何進の反攻があった。洛陽から宛に向かって、投石機一体(鮑信隊)。襄陽から上庸に向けて、黄忠隊。 黄忠の上陸を許してはいけない。海上で甘寧をぶつける。当然水上適性Sの甘寧が水上適性Cの黄忠隊に負けるはずがない。こちらは撃退した。 驚いたのは鮑信率いる投石隊。1万3千の投石隊とはいえ、こちらの5部隊1万5千の弩兵隊が全く鮑信を押し返せない。 宛を攻撃され続け落城寸前になったため仕方なく宛を明け渡し、次のターンでの再占領を繰り返す。甚大な被害(全部隊合わせて4千まで減らされる)を受けながら、ここで鮑信隊の気力が0に。ここで鮑信を囲んでこの被害に対する恨みをぶつける。途中文醜が鮑信隊の副将に一騎討ちで勝ったことが気力削りにおいて重要な役割を果たしたようだ。 筆者は前期シナリオをあまりやらないため、何進が投石 霹靂を研究すると知らなかったため、このような結果になったと思われる。それにしても鮑信という武将、良い武将である。寿命の問題さえなければ…… 永安弓櫓建設隊によって建設された弓櫓はすでに15個以上。破壊された分は詳しく数えていないのでわからない。 197年の冬になり、とうとう董卓最後の都市である長安に、楊懐・張任・呂蒙・厳顔で出兵。その頃上庸では、黄忠・孟達率いる何進水軍と甘寧・文聘率いる龐羲水軍の大激突が起ころうとしていた…… 実はそんなことより天下の一大事が起こっている。兵力最大勢力の公孫瓚がとうとう許昌を占領。また劉備が洛陽を落としたため、中原は既に劉備・公孫瓚連合軍の手に落ちてしまったのである。 孫堅軍と曹操軍は伸びると予想していたのだが、寿春争奪戦によって疲弊。しかも孫堅軍有利で進んでいるため、曹操はこのままいくと廬江のみを所有することになる。もし呉・魏の連合軍が出来てしまっては、相当辛い相手となる。 ここにきて、本当に公孫瓚を止める最後の希望となるのが我が盟友袁術になるとは……。袁術と公孫瓚の許昌・徐州決戦を乞うご期待!(フラグ) ※ちなみにこのシナリオ、他勢力からの外交的計略が多く、常に流言や二虎競食の計略をくらっている。そのためかわからないが、一年前チェックしたときは劉備と公孫瓚は親密関係であったのだが、現在は不和。ひょっとしたら直に河北戦争が再開するかも……? ☆謝罪 人為的ミスによりセーブを忘れてしまったため、この197年は幻となってしまいました。申し訳ないです。 再現を試みましたが、全く違う展開となってしまったので主要な変更点を記します。 宛・武威は陥落し、襄陽に負ける軍を派遣したところまでは同じ 登用武将は 「龐徳・賈詡・文聘・成公英」 ↓ 「楊阜・文聘・馬岱・閻行・向朗・劉岱」 許昌を取った勢力が公孫瓚から劉備になる。このため劉備の圧力が減り、何進の宛攻めが激しくなる。しかし何進が兵を宛に出しすぎたせいで、結局洛陽は劉備の手に。宛の防衛戦は(卑怯な手ですが)武関で一方的に殴ることに。 董卓がなぜか天水に攻めてこなかったため、董卓攻めを秋から行う。年変わりには董卓を滅亡させることができそうだ。 孫堅軍が永安の近くの港(巫県港)を押さえてしまった。そのため火船を江陵ー永安間に大量に並べる。もちろん孫堅軍は弓櫓に苦戦中。 袁術軍の襄陽侵攻が好調なこともあり、上庸に何進が攻めてこない。 といったところで再開させていただきます。 ☆1.198年の戦略 まず董卓の引きこもる長安を落とします。あらかじめ出兵している我が軍の精鋭(楊懐・張任・厳顔・王甫・呂蒙)が董卓や徐栄らを蹴散らし、城に取りつくと1月中旬に落城。 ところで龐羲軍は現在最大勢力であり、13都市を保有している。しかし武将は40人ほどしかいないため後方都市の内政は手付かずのままであった。 今ここに董卓軍出身の武将20数名を加え、大分後方都市の運用がラクになった。 3月に新たに登用した韓浩が司馬懿を推挙し、舌戦の末あえなく敗北。司馬懿は他勢力に流れるかと思いきや、なぜか雲南にいるのでしばらくしたら我が軍に加えようかと思います。 4月、劉備が停戦の使者を送ってきた。3ヶ月と短期間で、しばらく攻めこむ予定もないので停戦。 洛陽の関が入り組んでいる地点には、何進軍の残党2~3万ほどが行き場を無くして右往左往している。これを宛から劉璝、長安から厳顔によって挟撃し全滅させる。これにより残る何進軍は襄陽の軍だけとなった。 このゲームではプレイヤー勢力の君主が拠点にいると頻繁にイベントが起こる。龐羲軍はあらかたイベントを起こしたので(これ以上イベント効果を受けたくなかったので)、龐羲自身が廟を探しにいく。廟というのは隠しデータで、ある地点につくと武将が強化されるのだ。さっそく翌年に遺跡を発掘。騎兵適性を上げてくれるという。イラネ 秋になり軍備が整ったため、襄陽を攻めこむ。メンツは龐羲軍オールスターと銘打って、楊懐、張任、甘寧、 厳顔・呉蘭、黄権・雷同・王甫という布陣で出陣した。 迎撃に出た何進軍の顔良が騎兵戦法使用後の強制一騎討ちを挑んで来る。こちらは張任だったが、わざわざ危険を犯してまで勝つ利点もないためここは退却。一騎討ちで怪我したため張任は施設破壊に努めることにした。 ☆2.199年 登用禁止期間が解けた司馬懿を登用。よくぞ我が軍に来てくれた。が、軍師にはなれない。 何進軍を、滅亡させる。いかに相手が強くとも、兵力による優劣はさすがにひっくり返せない。 ここで占領時に金を持っている部隊を入れないというミスで、二流武将を全解放。さらに誤って袁紹夫人の劉氏を解放したため、袁紹も登用不可に。 それでも重要な人物は登用を行う。 韓遂、徐晃、馬超、黄忠、賈詡、李厳、顔良、孟達といった顔ぶれである。やはり相性の問題か、蜀に関係してそうな人物が大量に釣れた。 余勢を駆って江陵へ攻めこむ。江陵は秦宓が弓櫓建設によって敵兵削りの作業を行っていた場所、大した抵抗もなく孫堅が籠る江陵を落とす。 一方そのころ、宛は暇していた二軍武将たち(劉璝、文醜、法正、李恢、李厳など)を許昌に向かわせる。 たかが2万くらいだからこの武将たちでも吹き飛ばせるだろ、と楽観していたが、劉備・張飛・関羽の三義兄弟が出てきて事態は一変。 龐羲軍は苦戦しながらも、李恢で撹乱をかけて各個撃破。幸いにも許昌には軍師タイプの、李恢の撹乱が通らない武将はいない。 そして捕らえた劉備・張飛・関羽は全員斬首。ここらへんは楊懐の前世の記憶が叫んでいるということにしておこう。システム的に仲間にならないということもあるけれども。 劉備軍は新君主である劉辟(この人黄巾系では?)へと代替わりした。 多分読者の皆様は「あれ?この筆者、処断大好きなのかな?」と思われたであろう。しかしこのプレイでは5人しか斬っていない。軍勢を率いながらも、我が軍を裏切った韓馥。このシナリオの悪役である何進(大義名分だから斬ったのである。決して無能だからではない)。そしてこの劉備三義兄弟。 おそらく我が軍後方都市の都督・張松はこれを悲しんだろうが、張松は最初は曹操に取り入ろうとしていたからこの時代はまだ曹操派のはず……? ☆3.200年 さて、あらかじめ予告しておきます。 大陸を統一せず、プレイ日記をあと2年で終わらせます。 理由としては大勢が決してしまっているため、統一までプレイすると見所がこれまで以上にない、いわゆる作業になってしまうためです。ご了承ください。 さて、そうと決まればやることは絞られてきます。 いかに見所を生み出すか? 現在大陸には、西半分を制圧している龐羲軍、その同盟軍である袁術、河北・中原を制圧する公孫瓚・劉備(劉辟)、そして孫堅軍がいますが、その他には荊南で 小競り合いを続ける刑道栄(旧区星軍)、劉焉、廬江の曹操がいる。 ということで見所を作る、という名目で荊南四都市を1年ですべて落としにいく。 結論からいえば、楊懐・張任・厳顔は強かった。本当に200年終了時までには4都市全てをゼロから落としてしまったのだ。敵が弱いのもあるが、長沙でも孫堅の迎撃を物ともせずに、拠点に取り付きあっさり落とす。 一方その頃、龐羲も君主自ら廟・遺跡を探しにいく。この200年の内に、統率を上げる遺跡と特技を与える廟を両方発見。 統率の方はもちろん楊懐の能力向上に使い、特技の方は古参ながらイマイチ戦場にも出れなかった王累に指導をつけ、楊懐とコンビを組ませる。これで楊懐の能力が少しでも上がれば良いのだが…… さて、その間に他の都市では兵が余っていたので、劉辟軍の残党狩りを行う。 まず文醜・法正・黄権・文聘・司馬懿・龐徳といった、古参ではないものの出番を与えてあげたい武将たちで洛陽を物量攻め。トドメは、遺跡探しから帰還した龐羲自らが刺す。 そして余勢を駆って(この軍いつも余勢を駆っているな)、陳留を攻める。さすがにここは苦戦したものの、というかこれはこれで半年くらい戦っていたので激戦といえば激戦なのだが、やはり敵味方共に武将に思い入れがないと、良い戦いに見えないのだ。 最後は龐羲が締めて陳留攻略。これにより王位を自称する龐羲。ここにきて龐羲軍の勢いは益々盛んになった。 最終章.201年 さあ、龐羲軍がやり残したことはないか?と考えると ①楊懐の育成、嫁探し ②公孫瓚の大軍に挑み、龐羲が帝位に上る という二点が思い浮かんだ。筆者的には、(このシナリオの)何進を斬ったため、やることは終わっているのだ。 乱世の姦雄・曹操を滅亡させることがプレイのまとめだと思っていた(まさか公孫瓚に押されるとは……)ため、当初の予定通り曹操攻略に向けて軍を進める。 そのために手前の柴桑にいる孫堅を攻略する。3万程度の抗戦ならば、野戦において楊懐・厳顔・張任の火矢で削り、城に甘寧の兵器が取り付けばあっさりと落ちるのだ。精鋭弩兵を研究した以上、もはや普通の軍では相手にならない。 そのまま曹操軍5万が籠る廬江へ突撃。 厳顔・楊懐・張任・甘寧及び副将は最寄りの港から廬江に取り付く! 次のターン!曹操軍の反撃!呂布・曹操・曹仁……といった超のつく名将どもが龐羲軍をボコボコに殴る!甘寧隊なんと壊滅、厳顔隊も半壊する。 これはまともにやっても勝てない!と思った筆者は、曹操軍が1都市であることを利用して部隊に一切攻撃せず廬江を落とす。これにて曹操軍は滅亡し、相手4万の兵が一瞬にして消える。 このやり方は出陣している武将をみすみす逃がすことになるので普通は推奨されない。が、今は都市数が命。幸い女性武将4人と、曹丕、曹休の射手コンビを確保したので即登用。残りは慈悲の心で解放する。 また、なぜかこの時期になって技巧研究の発展の際に現れる左慈がようやく出現。このイベントは武将の能力経験値を全員・全能力・一定値上げるイベントである。 左慈さんのおかげで楊懐は弩兵適性Sに昇格。統率も大台となる90に上昇。張任の統率に至っては夢の100を達成。今回のプレイの目標をある程度完成させた形だろうか、ここで187年の開始時の能力と今の楊懐の能力を見比べる。 楊懐(187) 59-65-65-59-50(うろ覚え) 楊懐(201) 90-91-89-86-76 さーて、楊懐の嫁は誰にしようか?と悩む。しかしシステムエラーなのかなんなのか知らないが、未婚武将でも結婚出来ない武将がいるため選択肢が思ったより少ない。死没武将が旦那ということもない武将までもがそうなるとは思っていなかった…… かくして楊懐・貂蝉という一組の夫婦が誕生し、筆者を喜ばせた。 ええ、わかってますとも、壮大な茶番です。 一方そのころ、陳留を巡る戦いが激化していた。陳留に籠る10万の龐羲軍に対し、濮陽10万・小沛4万・業β3万が一斉に押し寄せる。実際に出陣したのは合わせて10万くらいだが、厳しい戦いとなった。 と、書きたいところだが敵将を見てみると、先陣を切る太史慈は辛い相手だが後詰めの武将は張絋や騎兵でない公孫瓚などといった大したことがない布陣であったため、弩兵で囲んで各個撃破。陳留西側に押し寄せる軍も法正・呂蒙の足止めにより凌ぎきる。 10月になり濮陽は未だに大軍が残っているが、小沛には3万の兵しかいない。馬岱や文聘らが壊滅するものの、最後には龐羲が小沛を落とし、これで龐羲軍は201年を終わったところで25都市を所有。 翌202年1月1日、楊懐・張任らの勧めにより、龐羲帝位に上る。国号はもちろん蜀であった…… はい、今回のこのプレイ日記をここまで見て下さったみなさん、ありがとうございました。 自分で始めておいてなんですが、正直失踪すると思っていました。(大体龐羲と楊懐なんて誰得勢力だよ) しかし閲覧者が結構いたり、コメントまで付いたりと、発売から10年過ぎたゲームとは思えないくらいに賑わっていて、やはりみなさんも三国志が好きなんだな、と感じました。 このプレイ日記が少しでも読者のみなさまのひとときを楽しませられたのであれば幸いです。 長らく更新遅れてすいませんでした。統一した際の記録を載せる予定でしたが、いわゆる作業になってしまい、しかも公孫瓚の兵力がムダに多いためここで打ちきりというか、完結ということにさせて頂きます。 次の企画がもし進めば日記を書かせて頂くので、その時はまたよろしくお願いいたします。 製作後記 今回文章を書く練習と、私の三国志11の8年分のスキルを総出してどこまでやれるのか、の検証という目的で始めました。 203年の内に楊懐の統率の成長も限界(92)を迎え、功績も6万の上限にぶち当たっていたため、もう楊懐のサクセスストーリーとしても見所がないかなー、と判断し皇帝就任による区切りということにさせて頂きました。 多分超級でもチャート通り張任を確保してしまえばルーティーンの都合上、厳顔は倒せます。おそらく内政が一定ラインまで進まないと何もしません。あとは成都に出てくる内政官と在野の甘寧、李恢を回収すれば詰みはないはず。 ここらへん検証すべきなのでしょうが、まあ龐羲で統一可能とわかったので良かったです。 重ね重ね申し上げますが、御閲覧ありがとうございました。 イイネ!盛り上げ -- 名無しさん (2017-03-21 11 46 06) 196年まで追記させていただきました。コメントありがとうございます。 -- 筆者 (2017-03-22 01 50 44) 楽しみに拝見してます -- 名無しさん (2017-03-22 12 42 50) 面白いよ。がんばれ! -- 名無しさん (2017-03-22 19 30 33) 二件もコメントありがとうございます。コメントのお陰でセーブミスから立ち直れました。今しばらくお付きあいお願いします。 -- 筆者 (2017-03-28 12 02 15) セーブミスあるある過ぎるw -- 名無しさん (2017-03-29 17 54 35) 更新期待、また -- 名無しさん (2017-05-17 22 41 54) 途中送信してしまった。マターリ頑張ってください -- 名無しさん (2017-05-17 22 42 49) 楽しく読ませていただいています。 -- 名無しさん (2017-05-18 20 09 40) 完結おめでとうございます。とても楽しく読ませていただきました。 -- 名無しさん (2017-06-11 04 17 17) お疲れ様でした!楽しく読ませていただきました! -- 名無しさん (2017-06-11 16 42 52) 結婚は勲功リセットしてるから出来なかったんじゃないかと推測しました。しかし、完結お疲れ様でした!楽しかったです -- 名無しさん (2017-12-30 16 23 08) 名前 コメント
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"豪胆なる侠客"甘寧興覇 ID:Tw-02-016 種類:ユニット 種族:人/将軍/呉/ネームド レアリティ:R パワー:4 タフネス:4 移動力:1 コスト:5H 攻撃範囲 ○○○○○ ○○○○○ ALL 防御範囲 ○○○○○ ○●■●○ ○○○○○ 特殊能力 電撃戦[0](登場したターンに攻撃できる。) 夜襲[0](US状態のユニットに攻撃できる。) 奇襲[0](攻撃を行う場合、その戦闘中、敵軍は戦術を使用できない。)
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甘興はちょっと過大評価か? -- (名無しさん) 2011-03-02 21 29 29 ↑甘寧がモデルなので良いかと… -- (名無しさん) 2011-03-03 21 24 00 三国志新聞笑った アレは面白かったな~ -- (名無しさん) 2011-04-05 01 51 45 倭少追加したらおもしろそう -- (名無しさん) 2011-06-12 19 49 15 燎宇の評価低いな -- (ぽっくる星人) 2011-08-19 22 07 04 ↑え? ここの数値だと総合が司馬懿・陸遜と並んでるけど… 「覇-LORD-」読んでないからよく知らないけどこれでも不足に思えるほどの化け物だったの? -- (名無しさん) 2011-08-20 07 57 41 統・武は作中最強の描写。関・張を軽くあしらい、呂布よりも格上な感じ 戦術・戦略眼でも曹操と互角以上って感じで、史実通りに劉備が負ける展開にするのに 作者が苦労してるようにさえみえたw今やってる二部は多少落ち着いてるかな 話自体はトンデモ展開にターボかかってるけど -- (名無しさん) 2011-08-20 09 13 50 そんしゅくざい超いいやつ。 -- (名無しさん) 2012-05-09 19 19 08 武力120ってwバカかよ本当に。 -- (名無しさん) 2012-09-09 19 23 25 燎宇さん、データで表そうとすると最強過ぎて吐き気がしそう。作中そのままだと、曹操と劉備を足して1.5で割った位だものw最近だと関羽と一騎打ちして、武器の差で負けてたけど。 -- (名無しさん) 2012-10-15 12 37 25 芙容姫(≧▽≦) -- (名無しさん) 2013-01-10 04 41 58 龍狼伝の武将はいないんですね。 -- (名無しさん) 2014-02-13 11 53 06 Wii版ですが、燎宇の燎ってどうやって出しますか? -- (名無しさん) 2014-03-24 14 21 05 何で燎宇弱くなってるの? -- (名無しさん) 2014-07-31 23 41 23
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ウィキペディアより引用します。 読むのが面倒だ!という方は日本における三国志の受容と流行までの文を読んでから 管理人が最後に書くまとめみたいなんでも読んでみてください。 といっても管理人もあまりよんでませんが。 三国志(さんごくし)は、中国の後漢末期から三国時代にかけて群雄割拠していた時代(180年頃 - 280年頃)の興亡史である。“三国志”と呼ばれるのは、ほぼ同時代の歴史家陳寿(233年 - 297年)がこの時代の出来事を記録した歴史書の名前が、『三国志』であることにちなむ。 「三国志」とはその名のとおり、魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国が争覇したことから付いたものであり、三国時代のことを叙述した歴史書が、元蜀の家臣で後に西晋に仕えた陳寿によって『三国志』と名づけられた事に由来する。この時代の曹操・孫権・劉備らが争い合ったことは一般にも良く知られている。 その後、歴史書の『三国志』やその他の民間伝承を基として唐・宋・元の時代にかけてこれら三国時代の三国の争覇を基とした説話が好まれ、その説話を基として明の初期に羅貫中らの手によって『三国志演義』として成立した。 「三国志」の世界は『三国志演義』を基としてその後も発展を続け、世界中に広まった。 日本における三国志の受容と流行 正史の受容 『三国志』の伝来時期は正確には判明していないようである。 天平宝字4年(760年)に成立した『藤氏家伝』大織冠伝には蘇我入鹿の政を「董卓の暴慢既に國に行なはる」と批判する記述があり、すでに董卓の奸臣としてのイメージが形成されていた事が窺われる。 天平宝字4年淳仁天皇は舎人6人を大宰府に遣わして吉備真備の下で「諸葛亮八陳」「孫子九地」といった陣法を修得させている(『続日本紀』巻23)。 神護景雲3年(769年)称徳天皇が大宰府の請に応じて『史記』『漢書』『後漢書』『三国志』『晋書』を下賜している(『続日本紀』巻30)。これらの史書が日本国内に普及する過程を示す一例である。 藤原佐世が撰述した平安初期の漢籍目録『日本国見在書目録』には[2]当時の日本に存在した後漢時代の史料として『東観漢紀』『後漢書』『三国志』『後漢紀』『帝王世紀』を挙げる。また、平安末期の藤原通憲(信西)の『通憲入道蔵書目録』には「『魏呉蜀志』二十帖」があり、藤原頼長は読了した漢籍として「『三国志』帝紀十巻」を挙げている(『台記』巻3・康治2年(1143年)9月29日条)。 『太平記』巻20「斉藤七郎入道々献占義貞夢事付孔明仲達事」(西源院本の事書)には、大蛇に変身する夢を見た新田義貞が吉夢であると喜ぶが、斉藤道献は密かに大蛇を「臥竜」諸葛孔明の奮闘と無念の死に重ね合わせ、燈明寺畷での義貞の戦死を予感するという描写がある。この物語は曹操・劉備存命中に五丈原の役が起こるなど、史実や演義などと異同がある上孔明の出廬の場面も潤色されており、日本でアレンジされた一つの三国志物語とも言える。 中世以降、五山の学僧や江戸の漢学者は主に朱子学に基づき三国志の人物を論評した。諸葛亮が「王佐の才」を有するか否かについて鵜飼石斎はこれを肯定し、伊藤仁斎はこれを否定した[3]。 林鵞峰以降、江戸期の漢詩の題材としても三国志の人物が好まれ、特に関羽と諸葛亮が至忠の烈臣として讃えられた[4]。明治期の土井晩翠の新体詩「星落秋風五丈原」(明治32年(1899年)『天地有情』所収)もこの伝統を踏まえたものである。 明治以降の正史に基づいた史伝として内藤湖南『諸葛武侯』(東華堂 1897年)、吉川幸次郎『三国志実録』(筑摩書房 1962年)がある。また陳舜臣『秘本三国志』などの小説の一部には正史の記述が取り入れられている。しかし、吉川三国志などの急速な普及により三国志といえば、『三国志演義』の物語を指すのが通常であった。 状況が一変するのは『世界古典文学全集24 三国志』全3巻(筑摩書房 1977年 - 1989年)で『三国志』が初めて日本語訳され、1993年に文庫版が発売されてからである。これにより、一般の三国志愛好家が正史を読むことができるようになり、多くの人々が『三国志演義』により固定化されていたイメージに疑問を持つようになった。これ以後、正史を基礎とした三国志の解説書が多数登場し、漫画やゲームなどにも正史を基にした作品が現れるようになる[5]。ただし、これらの作品はいずれも横山三国志(漫画家横山光輝)など従来の演義ベースの設定に拠っている部分も多く(特に人物の外見や武具など)、純粋に正史に基づいた作品というよりは、演義に基づいた三国志ブームの中で人物設定や出来事など一部の事柄を正史に基づいて再構成したという意味合いが強い。 三国志演義・大衆文化の受容 『三国志演義』の伝来時期は確定されていないが、江戸初期には『演義』受容の記録が漸く増加し、詩文などの中に演義の影響を受けたものも見られる。[6]林羅山は慶長9年(1604年)までに『通俗演義三国志』を読了した[7]。また、元和2年(1616年)に徳川家康の遺志により駿府の文庫から水戸藩・尾張藩へ移された書籍の内に『演義』があった[8]。 『三国志演義』の日本語訳として、元禄2年(1689年) - 5年(1692年)に湖南文山(『大観随筆』によれば天龍寺の僧義轍および月堂の筆名)『通俗三国志』が刊行される。これは日本語完訳された初めての外国小説であり、満州語版に次いで2番目の外国語訳『三国志演義』である[9]。同書は以後も再刊を繰り返し、葛飾戴斗(葛飾北斎の弟子))の錦絵を付した池田東雛亭編『絵本通俗三国志』(天保7年(1836年) - 12年(1841年刊)が人気を博し、明治には幸田露伴『新訂通俗三国志』(東亜堂書房 1911年)がある。 明治以後には『通俗三国志』以外にも諸種の訳が現れ、明治期には久保天随『新訳演義三国志』(至誠堂 1912年)が名高い。戦後は小川環樹・金田純一郎『三国志』(岩波文庫 1973年 改版88年)、立間祥介『三国志演義』(平凡社 1958年、徳間文庫 1983年)、井波律子『三国志演義』(ちくま文庫 2003年)、渡辺精一『新訳三国志』(天・地・人の巻 講談社 2000年)があり、これらの訳本は改稿・重版を経て現在も通行している。 『通俗三国志』の刊行以後、大衆文化にも三国志が普及し歌舞伎においては早くも文化8年初演「助六由縁江戸桜」に「『通俗三国志』の利者関羽」という台詞が出る。また万延元年初演「三人吉三廓初買」では「桃園ならぬ塀越しの、梅の下にて」義兄弟の契りを結ぶ場面がある。また元文2年初演の作品に「関羽」というそのものずばりの題名もある。近年では市川猿之助のスーパー歌舞伎『新・三国志』がある。 洒落本では夢中楽介の『通人三国師』(天明元年(1781年)刊がある。劉備が吉原で料亭を営むところに借金を抱えた孔明が転がり込み、さらに仲達が押し掛けるが孔明の計略で撃退される、という筋立てである。このような三国志のパロディは文人のみならず読者層にも三国志の物語が広く敷衍していたことを示すもので、江戸人の『演義』読解への熱意を見出す見解がある[10]。 曲亭馬琴は羅貫中ら中国の小説家を崇敬し自らを羅貫中になぞらえており、読本の表現手法において『三国志演義』に負うところが大きい[11]。その一方、随筆においては関羽に対する辛らつなコメントを残している。 戦国の人物を三国志の登場人物になぞらえることも行われ、竹中半兵衛は諸葛亮に擬せられ[12]、豊臣秀吉・徳川家康は諸葛亮の智謀・関羽の勇を兼備した武将と評された[13]。 明治以後は『三国志演義』をもとにした時代小説も多く現れるようになり、児童向けの野村愛正『三国志物語』(大日本雄弁会講談社 1940年)などがあるが、戦後の三国志ブームの礎となったのが吉川英治の新聞小説『三国志』(『台湾日日新報』等に連載。単行本は大日本雄弁会講談社 1948年・六興出版 1956年)である。戦闘シーンなどの冗長な描写を省き、人物像にも独自の解釈を取り入れた格調高い歴史文学として評価されている。また、中国人と日本人との感性の差を考慮し、日本人にとって受け入れがたいエピソード(劉備をもてなすのに劉安が妻を殺してその人肉を提供するなど(鉢の木のエピソードの原型版))に作者のコメントを寄せるなどの改変を行っている。それまで単なる悪役扱いだった曹操を、人間味あふれる乱世の風雲児として鮮やかに描いているのが特徴である。日本では、吉川三国志が事実上の底本となっている。これ以後柴田錬三郎『三国志』(鱒書房 1955年)『柴錬三国志 英雄ここにあり』(講談社 1975年)『柴錬三国志 英雄生きるべきか死すべきか』(講談社 1977年)[14]、陳舜臣『秘本三国志』(文藝春秋 1974年)『諸葛孔明』1991年 『曹操』1998年(各.中央公論社 のち同文庫)、北方謙三『三国志』(角川春樹事務所 1996年)、安能務『三国演義』(講談社 1999年)、宮城谷昌光『三国志』(文藝春秋 2004年)を代表とする「三国志」小説が次々と登場する。 戦後のメディア作品としては吉川三国志をそのまま漫画化した横山光輝の漫画『三国志』や人形劇の『人形劇三国志』などが高い評価を受けた。また、曹操を主人公とした漫画である『蒼天航路』も高い評価を受けている。ゲームについては、『三國志シリーズ』や『真・三國無双シリーズ』などがヒット作品となっている。2008年には、ジョン・ウー監督のもとで「赤壁の戦い」をメインにした映画『レッドクリフ』が公開され、ヒット作品となっている。 高度成長期のビジネス競争の過熱の中で、競争を生き抜く知恵や企業のリーダー像の見本として、『孫子』などともに『三国志演義』もしばしば引き合いに出され、『三国志演義』に学べとしたビジネス書が多数刊行された。 1980年代以降、ゲーム・漫画において爆発的な三国志ブームが起き、三国志はジャンルの一つとして定着する。その後今日に至るまで、漫画やゲームや映画やアニメとして多数の作品が出版・製作され、不動の人気を博してきた。また他にも、三国志に出てくる人物の名前やその時代観を基にした、全く違ったものが作られるなど多彩なものと成りつつある。 そしてそれら三国志を題材にした作品は、必ずしも『三国志』あるいは『三国志演義』に忠実なものではなく、大きく改変が加えられているものも多い。特に顕著な傾向として、諸葛亮死後以降の展開については省略が目立ち、晋の統一に至るまで忠実に描き切った『三国志』作品は国内では皆無である。また、「もし、こうなっていたら」という仮定の設定で作られているものや、君主の設定が少し違うもの、あるいは基になっている人物の性別を換えているものなど、多種多様な作品が存在している。 三国志とは蜀の臣下の陳寿という方が記した歴史書だったんですね。 みなさん三国志は吉川三国志やその漫画版 横山光輝の三国志、 あるいはコーエーのゲーム三国志、三国無双。今年はレッドクリフなどの方がほとんどでしょうが ほとんどが三国志演義ベースなんですね。 北方謙三などが正史ベースです。 蒼天航路はどっちかな? えぇ?正史とか演義って何?ってかたは正史と演義を。 興味をもっていただけましたか? このwikiを読み通せばあなたも立派な 三国志オタク!!
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